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Vol.499 もしかしたら、漢気あふれる一本だったのかも? 『情愛中毒』 [韓国映画]

 『情愛中毒』こと『인간중독』は、2015年五月十四日に韓国で公開された作品である。
 日本では同年11月22日に、こっそりと地味に公開された。

 原題はまるでゾンビが闊歩するホラー映画のようだが、おそらく韓国内WEBマーケティング対策として妙なタイトルを付けたのではないだろうか。
 内容的には日本語タイトルの方が近いが、これだと凡庸過ぎて、今の韓国では埋もれてしまいそうだ。

 個人的には興味の無い作品、主演が송승헌なのも観に行くことを躊躇させたが、

 1.知人の俳優氏が송승헌の演技を褒めていた

 2.1960-1970年にかけての韓国陸軍上層部を描いている

 3.映画の日が空いていた

 主にこれらの理由で観ることにした。
 
 김대우監督の新作としては残念ながら「下」の出来栄えで、김진평演じた송승헌はともかく、相手役종가흔演じた임지연の演技があまりにもひどいので呆れてしまった。
 いくら新人とはいえ、これでは本来なら「完全OUT!」だろう。
 彼女は後に、悪評高い韓国内某映画賞で新人女優賞をもらったが、今も「忠武路事情」(※)は相変わらずのようだ。
(※)ここ十年は江南・狎鴎亭・新沙洞事情と言った方が正確かも?

 しかし、最大の驚きだったのはそんなことよりも、この作品が軍事政権時代の陸軍将校を主人公にして、その暮らしぶりや主張を表立って描いていたことだろう。
 なぜこれが「驚き」なのかと言えば、この階層に属していた人々は今の若い人たちから【自分たちを苦しめている諸悪の根源】として、政治的な吊し上げの対象になっているからだ。
 
 それは言わば、「ポスト日帝時代批判」のようなものであり、「反日」の別バージョンかもしれず、下手を打てば『青燕(청연)』だとか『マイ・ウェイ(마이웨이)』の二の舞いになりかねない因子を抱えたお話なのである。
 
 もちろん、過去における幾つかのヒット作のように朴正煕元大統領を決して英雄として扱わず(かといって悪としても扱わず)、全斗煥元大統領だけをこき下ろすか、暗黙で軍事政権を批判しているように見せかければ、それほど問題にはならないのだけど、この『인간중독』にはそういう偽装が感じられず、真面目に積極的に正直に、昔のコアな軍人たちを悩み多き不完全な「人間」として公平に描こうとしている。
 その姿勢は映画の出来とは全く別に高く評価したいのだが、同時に「こりゃあ、最近の韓国ではマーケティング的にヤバイだろう」な映画だったのである。

 そして、さらにびっくりしたのは主人公김진평がベトナムに派遣された「猛虎部隊」の幹部という設定であり、劇中「韓国兵が残虐行為をしたのはベトコンがそれを先にやったからだ」といった主旨のセリフを吐いたことだ。

 これを今風に言い換えると彼は「軍事政権下で利権を貪った階層」に属する憎むべき人間であり、「朴正煕元大統領&全斗煥元大統領、直接の手下」という悪者であり、「ベトナムで虐殺を行った」恥ずべき当事者、ということでもあって、自称・他称の左派系愛国者が嬉々として罵詈雑言を浴びせそうな「韓国黒歴史」の象徴みたいなキャラなのだ。

 だから、この映画を観ている最中はずっと「もしかしてこの映画は、軍人会系右派閥が従北系左派閥を牽制するためのカウンターアタック作戦だったのではないか?」などと考えていたのである。
 なぜなら、ここ最近の韓国映画は軍事政権を槍玉に上げて批判し、悪へと祀り上げる「社会派」ネタが定番になっているからだ。

 そう考えると、これまで韓国映画では叩かれっ放しだった韓国内右派系の人々(=お金持ち)の中から、『인간중독』のような作品に出資を行い、やり返そうという動きが出たとしても、なんら不自然ではない。
 だが、仮にそうであったとしても、それは映画を観に行かない裕福な高齢者層の発想かもしれず、映画をよく観る世代の支持を得ることは当然ながら難しい。

 実際、『인간중독』の韓国における興行収益は累計約144万人程度(※1)なので、「ああ、やっぱりね」的な数字だ。
 作品を支持している人たちもWEB上の統計によれば40代の女性が中心(※2)で、「右派」とか「左派」といったことにあまり影響されない人々だろうと思われる。
(※1)毎度おなじみKOFICの統計では1,442,014人(総スクリーン数1,635)
(※2)NAVER영화の統計に依る

 韓国の若者が軍事政権を否定し嫌うことが流行りの現在、累計動員数約144万人という韓国内での数字は意外と健闘した方かもしれないが、一味違った人間ドラマで高く評価されているヒットメーカー・김대우監督&脚本の最新作としては、かなりショボイ結果と言われても仕方ないだろう。

 そして、政治に関心が薄い人から言わせれば、「軍事政権下を舞台に主人公は陸軍エリート将校、それを송승헌が演じるんじゃ、そりゃ、みんな行かないわ」だったのでは?

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Vol.495 はたまた大学の中の映画館 [韓国映画]

 現在、ソウル市内には「KUシネマ」と称する、主にインディーズもしくはアート系作品を上映する映画館が二軒ある。
 ひとつは建国大学芸術学部棟内にある「KU시네마데크」であり、もうひとつが高麗大学マルチメディアセンター内の「KU시네마트랩」だ。

 両方とも大学名をそのまま冠した劇場なのでズッコケそうになるが、上映する作品や劇場施設共にコダワリが感じられ、最近のソウルの映画館では個人的にお気に入りでもある。
 ソウル市内の、やや亜流の繁華街方面にあるが、漢北辺りなら交通の便もいい。
 ただ、あまり派手な宣伝を行っていないので場所が分かりにくい、という欠点がある(アルバイトスタッフの質が凸凹しているのは韓国のミニシアターだから我慢しましょう)。

 ソウルのアート系ミニシアターは概して妙な場所にあり、時として非常に分かりにくいのだが、「KU시네마트랩」もそうだった。
 事前に場所を調べて地図を出力し赴いたのだけど、意外なところでつまずいてしまい全く見つからず、困ったことになってしまった。
 仕方ないので大学構内の警備員に尋ねるが、どうも説明に納得出来ない。
 逆に「そっちの方向にある訳ないだろう」と勝手に思い込んでしまい更にドツボに嵌り、安岩キャンパス内をしばし彷徨うことになってしまった。

 だが、これはみんな筆者が悪いのである。
 学内略図に劇場案内が無かったことも大きいが、勝手に「高麗大学の安岩キャンパスはひとつの敷地にまとまって…」と頭から思い込んでいたからだ。
 ところが実際は違っていた。

 高麗大学に通っていたことがある方にとっては失笑ものだが、同大学の主な施設は地下鉄六号線「安岩駅」から「高麗大学駅」の間にかけて、大体三つほどの敷地に別れて点在しており、この大学敷地内に初めて侵入した筆者はそのことに全然気が付かなかったのであった。

 なぜなら、それまでソウル市内の名門大学と言えば、【巨大な敷地で辺りを占有し】、【これみよがしに丘の上から街を睥睨し、大威張り】という偏見が頭にガッチリ刷り込まれていたからであって、後になって考えてみれば警備員の方の説明は間違っていないのであった(疑ってすみません…)。

 「KU시네마트랩」はメインキャンパスから結構離れた「高麗大学駅」方面の同大学付属施設内にあるが、どこにも看板が出ていないので外からはサッパリ分からない。
 だが、その素っ気なさとは逆に、ロビーがしょぼいが上映設備は中々であり、非常に観やすい。
 シートは建国大の方が好みだが、快適な映画空間がちゃんと確立されており、「また来よう」と思わせてくれる映画館になっている。

 ここら辺に関しては、老舗のスポンジやインディが全くダメなことは至極残念だが、アート系シアターの分野においても、ソウルに限ればここ五、六年にかけて、東京より恵まれた環境が整った印象すら受ける。
 お金の流れがどうなっているかは知らないけれど、だいぶ前からミニシアターに関してもソウルの劇場インフラは東京のそれを超えているのは否定出来ず、同じ立地条件ならば同様の施設を東京で開設して運用することは、おそらく無理かもしれない。

 かつて、韓国の映画関係者が渋谷のミニシアターを今後自分たちの参考にしようと見学に来ていたけど、渋谷系ミニシアターが壊滅した今、そのマインドを引き継いでいるのが、実はソウル及び近辺の独立系ミニシアターかもしれない。

 今回、映画館の良し悪しとは別に驚いたのが、名門と謳われる高麗大の施設が想像以上にボロボロで、敷地も意外と狭いことだ。
 だけど、それは庶民的でもあって、逆に好感を抱いた。

 韓国も出身大学によって、OB・OGたちの気質が異なる印象をよく受けるのだけど、高麗大は筆者が考えるより庶民的な大学なのかも?

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Vol.488 韓国の夏、鳴梁(명량)の夏 [韓国映画]

 2013年韓国の夏は『설국열차(スノーピアサー)』の夏だったとすれば、2014年韓国の夏は『명량(鳴梁)』の夏だった、と言えるかもしれない。

 ちょっと違うのは『설국열차(スノーピアサー)』がマスコミ大騒ぎの割に世間の反応が低かったことに比べ、『명량(鳴梁)』の方は公開後どんどん盛り上がりを見せ、韓国映画市場の異常性を際立たせる大ヒットになっていることだが、どことなく政治臭が漂って来る点では共通している。

 『설국열차(スノーピアサー)』は韓国内マスコミその他のネガティブな批判が封じられたが、『명량(鳴梁)』は映画を否定的に語ったり観に行かない人に対して、一部観客が「民族の裏切り者」扱いし恫喝する動きが出ているらしい。

 だが、『명량(鳴梁)』は出来が良い悪いを全く別にして、とりあえず日本で公開してもいい作品だとあえて提言したい。
 김한민監督の前作『최종병기 활』以上に大雑把、退屈な作品だが力作だし、なによりも韓国における普遍的な「日本・日本人観」を垣間見ることができる良い例だからだ。

 日本では「抗日・反日映画が韓国で記録的大ヒット!」といった骨子でばかり紹介されているが、どうせ否定して攻撃するなら、観てからの方が嫌韓派にとっても効果的な「対韓国揚げ足取り作戦」をやり易いだろう。

 そして、この映画が日本に対して危険な問題を孕んでいると本気で憂えるのであれば、『명량(鳴梁)』をテーマに深夜番組で日本と韓国の有識人を複数招き、韓国ウケする北野武あたりをMCにして朝まで「反韓・反日」バトル・ロワイアルでもやればよい。

 筆者はこの『명량(鳴梁)』を格別「危険な抗日・反日プロパガンダ映画」とは考えていない。
 韓国に対する批判精神が麻痺してしまったことも大きいけど、『명량(鳴梁)』もまた、韓国で常に描かれ続けているルーチンワークの物語に過ぎないし、韓国映画史上、おそらく日本の戦国武将を最も真面目にリアルに(そしてお金をかけて)描くことに、大きな力を注いだ作品とも言えるからだ。

 だからこの『명량(鳴梁)』を「反日・辱日の象徴」として吊るし上げにするよりも、「押しつけられる側としては韓国人も本音ではウンザリ」のスーパーマンネリな英雄譚に、今さら韓国の人々がなぜ群がったかを考えることの方が、真面目な反韓・嫌韓派にとっても大切だと思う。 

 韓国某紙によれば観客は40代から50代にかけてが多いらしいが(ということは必然的に家族連れである)、その世代の人々は学生の頃、民主化運動と己の脱韓国化、そして日本とアメリカを叩くことに熱を上げてはいても、社会人として世に出て見れば理想から遊離した現実を突きつけられて苦悩した年齢層だから、『명량(鳴梁)』に鬱憤と憧れを託す気持ちは分からなくもない。

 なにせ、この映画の主人公・李舜臣は、日本で言えば大坂夏の陣で徳川家康の本陣に突入しながら目的を遂げることが出来なかった真田信繁(幸村)のようなものだからだ。
 そして、今ではなく、金大中政権全期や盧武鉉政権初期の韓国で製作され公開されていたら、おそらく大コケだったのではないか?

 『명량(鳴梁)』が「日本を貶める反日映画」か否かについては結局のところ、韓国人観客側の情報リテラシーと行動の問題だろう。
 客観的な視点と分析能力が低い人は大衆操作する側のいいカモになり、そうでない人は沈黙の黒い羊と化すのはどの国でも同じようなものだ。
 日本人の多くにとっては、せいぜい「NHK大河ドラマもどき」か「戦闘シーンだけは凄い」といった感想を漏らす程度の時代劇に過ぎないのではないだろうか。

 例え、韓国人俳優演じる日本武将の日本語のセリフが何を言っているかよく分からず、例え、その容姿が「遊園地の菊人形」であり、例え、大谷亮平が李舜臣に心酔した朝鮮側のスパイ役なのに韓国語のセリフ無しであっても、それは韓国におけるいつものご愛嬌である。

 『명량(鳴梁)』を観て舞い上がり、日本人に対して喧嘩を売ってくる不愉快な「自称愛国者」がいたとしても、それは韓国社会のダメ系な連中だし、韓国で記録的な大ヒットをしているといっても、同国の観客全てがこの『명량(鳴梁)』に陶酔し絶賛している訳ではない。
 そして、韓国には日本の戦国オタクやNHK大河ドラマファンが結構いるから、そういう「隠れ日本ファン」がこの映画のヒットを裏で支えている可能性も全く無いとはいえなかったりする。
 
 出演者にも特筆すべきものはない。
 主演のチェ・ミンシクとリュ・スンリョンは演劇畑出身の韓国映画を代表する大スターだが、今回の演技は彼らの持つパフォーマンスを思えばかなり低く、「今の韓国映画でこれじゃあね…」のレベル、チェ・ミンシク演じる李舜臣にしても、リュ・スンリョン演じる来島通総にしても、カメラをにらみつけ、馬鹿のひとつ覚えの如く唸っているばかりだ。
 二人を取り巻く人々については、それ以上に芸も技もなく、棒と丸で構成された落書きの記号でしか無い。
 日本武将のセリフは全て日本語だが、あまり効果があったとは思えず、逆に韓国人俳優たちの演技を無用に硬くしてしまったように見えた。

 だが、映画では自国の歴史賞賛ばかりをやっている訳ではない。
 李舜臣が主流から外れた窓際族であり、朝鮮水軍が内輪で互いの足を引っ張りあっている様子をちゃんと描いているし、豊臣秀吉軍の襲来にしても「残酷で戦争好きな劣等民族・日本人がどうたら」以前に、予測できた避けがたい「天災」に何の手も打てなかった朝鮮王朝を批判する暗喩の象徴として描いているように思えた。

 この『명량(鳴梁)』に限らず、【朝鮮の英雄が永遠の悪鬼・日本に打ち勝つ】というパターンは何十年も前から韓国において空気や水のように当たり前のストーリーだ。
 我々日本人がそれを指摘して大騒ぎすることは、韓国人にとって理解し難い余計なお世話に過ぎないし、「抗日・反日・辱日」に熱を上げる偏向した愛国者連中が自身の「愛国者」ぶりにウットリするのはよくある光景であって、結局、韓国の人々の問題だろう。

 むしろ、それより筆者が恥ずかしいと常々感じているのは、「韓国って、香港の首都でしょ?(※)」とのたまわっていたのに、韓流ブームに乗せられて「韓国うっとり、自称韓国通」に鞍替えし、ついこの間まで「韓国大絶賛」をしていたくせに、マスコミその他主導の「嫌韓・反韓」キャンペーンが始まった途端、「真実に気がついた」だとかなんとか言い訳をして、簡単にそっちへ乗り換えてしまう日本人が少なからずいることである。
(※)実話です。ネタではありません。

 この『명량(鳴梁)』の欠点を挙げるとすれば、歴史マニアでなければ映画として非常に「退屈」で「面白くない」ことだろう。
 長くてダレダレ、説明ばかりの展開もそうだが、ろくな前説なしで鳴梁海戦を描いているので話がよく分からず、戦闘シーンも派手だがゴチャゴチャで混乱している(火砲や装甲に詳しい人なら首を傾げる描写もあるかと思う)。
 しかし、それは韓国の一般観客にとっても似たようなものだったのではないか?

 だから「じゃあ、なぜあんなに韓国でヒットしているんだよ!!」と絡まれても、私にはその理由は説明できない。
 せいぜい、「韓国大手企業の大衆操作(マーケティングとも称す)が大成功したんだろう」とうそぶくくらいである。

 もし、この『명량(鳴梁)』大ヒットにおける一番の憂えるべき問題を挙げるとすれば、「抗日・反日がどうの」よりも、李舜臣を描いた全三部作として続編の製作される可能性が一層高まってしまったことだろう。

 しかし、続編の製作と公開で一番迷惑を被るのは日本人ではなく、映画の可能性を模索している韓国の映画人であり、韓国的な隘路から脱皮を図ろうとしている市井の人々であり、なによりも観る映画の選択肢を配給側の都合で奪われてしまう観客たちのほうではないか?

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구루지마こと来島通総(演じているのは류승룡)

Vol.486 『海にかかる霧(해무)』 この夏、韓国映画界に射した一筋の希望 [韓国映画]

 
(※)記事中、ややネタバレがありますが、鑑賞には差し支えはありません。

 2014年の夏、韓国の映画館は国策映画とも言えそうな『명량(鳴梁)』に乗っ取られたイヤーな状態だった。
 その他も『군도・민란의 시대(群盗・民乱の時代)』や『해적・바다로 간 산적(海賊・海を往く山賊)』など、似たような時代劇ばかりが並んでウンザリ。
 だが、必然なのか意図的なのか、これら似たモノ同士の時代劇群が朝鮮王朝のトホホぶりを描く結果になっていたのは皮肉なことである。

 そんな韓国恒例夏のファシズム興行の嵐が吹き荒れる中、暗闇に射した一筋の光のように清々しく登場したのが8月13日に公開が始まった異色作『해무(海霧)』だ。

 某K-POPメンバーの本格的な俳優デビュー作ということで、この映画を観るために【日本人女性が夏の韓国に押しかけている】などという相変わらずなプロパガンダが繰り広げられていたらしいが、日本で公開する折には絶対にそれだけで売って欲しくないと思う。
 なぜなら、無残で悲しい愛を描いた純然たる伝統的な「韓国式シュール&グロテスク」の映画だからだ。

 物語は韓国漁船で起こった朝鮮族密航を巡る大量殺人とその顛末が描かれていて、「よくもまあ、こんな企画が今どき通ったものだ」と感心するくらい最近の風潮とはかけ離れた作品になっている。

 監督の심성보は今回が本格的なメジャーデビューだが、かつて名作『殺人の追憶(살인의 추억)』において脚本とスクリプター、端役として参加していたキャリアがあって、この作品に企画として名を連ねている봉준호の力添えが大きかっただろうことは想像に難くない。

 筆者はサスペンス&ミステリーかと思って観に行ったのだが、あくまでも純然たる人間ドラマであり、逃げようがない場所で誰がどう生き延びるかを描いたサバイバルドラマでもある。

 海に浮かぶ漁船の中がシーンの大半を占めているが、ユニークな顔ぶれの実力派俳優を揃えているので決してダレず、上質の舞台劇のような緊張感に溢れており、ブロックバスター作品にありがちな粗雑な編集や破綻した構成に陥ることもなく、映画は一貫した端正なリズムで語られてゆく。
 撮影や美術のレベルはかなり高く、「また日本映画が危うくなったかも」という危機すら感じた。
 
 登場する人物は基本的に「普通の人間」たちでしかない。
 その「普通の人たち」が予期も出来なかったトラブルに遭遇し、次々と醜い本性を現していく様がこの作品における主題の一つであり、そこに人間の「性善」と「性悪」を問う宗教的な暗喩を感じたのは私だけではないと思う。
 特に김윤석演じる철주船長が遂げる悲惨な最後は、その象徴であり暗示のようでもあった。
 ちなみに、『환상속의 그대(幻想の中のあなた)』で共演した한예리と이희준が間逆な関係を演じているのは偶然だろうけど、ちょっとした作り手側の遊び心に見えた。

 映画の結末は一部の人にとって納得が行かないかもしれない。
 なぜなら、あれだけの大量殺人と死体遺棄が行われているにも関わらず、事件の顛末については触れられないからだ。
 最後まで生き残った박유천演じる동식のその後についても同様だ。

 しかし、人間としての良心を守りぬき、愛を信じ続けた동식に待っていた運命も結局は救われなかったと言えるかもしれない。
 ラストシーン、街場の安食堂で彼は홍매(=한예리)らしき女性と再会するが、それもまた尻切れトンボであり、果たして本当に홍매自身であったかを明かされないまま映画は終焉する。
 だが、その不明瞭な幕引きこそ多くの観客に強い余韻を残したと思う。

 なお本作は韓国内観客動員数が140万人を超えたが、現在の韓国映画における風潮を考えるとこの数字はかなり評価していいのではないだろうか?
 もしその裏で『명량(鳴梁)』の興行に対する映画ファンたちの抵抗があったとしたら、ちょっと愉快かもしれない。

 『해무(海霧)』が日本で公開される際、どうしても박유천絡みの宣伝がなされることは仕方ないが、「韓流」イメージを払拭して普通の映画ファンの方々に観て欲しい作品であると共に、심성보監督が韓国映画界の「一発屋」で終わらないことを祈りたい。

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2015年4月日本公開予定
『ビー・デビル/김복남 살인 사건의 전말』が好きな人にはお勧めです(でもハード・ゴアではないので박유천ファンの方はご安心を…)

Vol.475 『ハン・ゴンジュ 17歳の涙(한공주)』 誰も彼女を救えない [韓国映画]

 2014年4月17日に韓国で公開が始まった『한공주』は、絶望と哀しみに彩られた衝撃作だ。

 製作・脚本・監督の이수진にとって関わった作品としては6本目の映画だが、彼の名前が一般的に認知されたのはおそらく今回が初めてであり、主演の천우희にしても、キャリアはそこそこだが、世間では無名に近い(日本で公開された作品では『母なる証明/마더』と『サニー永遠の仲間たち/써니』に端役で出演している)。

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2015年1月3日 日本一般公開

 ヒットとは程遠い要素がひと通り揃っている中、映画祭で好評をはくしたこともあってか、約一ヶ月で観客動員数20万人(※)を超えたことは特筆すべきことであり、フェリー沈没事故がなければ100万人はいっただろう、という下馬評も聞こえてくる話題作となった。
(※)2014年6月の段階で約22万人。数字だけ見れば商業作品に敵わないが、インディーズは1万人台動員でも成功の部類に入り、観客動員数1000人台というのは珍しくない。

 しかし映画は暗く冷たく、排他的ですらあり、決して観客に迎合していない。
 親切な語り口ではなく散文的であり、観る側のイマジネーションを強く求めて来るし、ティーンエイジの世界を描いてはいても、18才未満観覧不可だ。
 そういう観る側を選ぶ作品だったにも関わらず、大人の観客を集めたのは、この作品にも韓国が抱えた負のレガシーに対する熱い怒りと憤りがあったからではないだろうか。

 映画の元になった事件は、おそらく이창동監督の『ポエトリー アグネスの詩/시』で取り上げられたものと同じだが、『한공주』はこの作品とは異なり、視点をあくまでも被害者少女側に据え続けた。
 そして、現在と過去という二つの時間軸が交差し続けるうちに、主人公の少女に何が起こり、それに対して第三者たちはどう反応したのかが、次第にひとつの物語として浮かび上がってゆく。
 だから当初はノリが非常に悪く、若干の忍耐と考察を必要とするが、中盤を過ぎて終焉に向かうにつれて、主人公の何気ない行動の一つ一つが大きな意味を持ち始める。

 이창동作品との大きな違いは、やはり核となる対象が違うことだろう。
 『ポエトリー アグネスの詩/시』は、子どもたちが起こした事件に対して終始、他人事でやる気のない大人たちの態度を厳しく弾劾しつつも、被害者自身については正面から触れることを敢えて避けていたように思える。
 これは実際の事件における加害者側の保護者、学校関係者の立場に近いであろう이창동監督の正直で潔い判断だったのかもしれないが、作品は率直ながらも曖昧になってしまったことは否めない。

 だが、『한공주』は愚直過ぎるくらいストレートに、『ポエトリー アグネスの詩/시』が避けたものへ果敢に挑もうとしているように見えた。
 監督の이수진にしても主演の천우희にしても、あえて無謀にそれをやってしまった感すらある。
 だから、この作品は一部の観客、特に女性からすれば偽善的かもしれないが、仮にそうであっても、困難な題材にがぶり寄った熱意は作品に十分反映していたと思うし、それゆえ、多くの支持も得られたのではないだろうか。

 この映画が報われない不幸だけを描いたものだったのか、希望に繋がる道を暗示していたのかは、あくまでも観る側に委ねられてはいるけど、どちらにしても一つの残酷な結論が提示されていたと思う。

 「誰も彼女を救えない」

 その慟哭は観た後も胸の内で囁き続けるのである。

Vol.467 もちろん、私の考え過ぎです 『변호인』 [韓国映画]

 韓国とそれなりに長い間付き合っていると、つくづく正義と反権力に彩られた「英雄」と「伝説」を渇望している社会だな、とよく思う。
 そこにあるのは「こうなりたい!」という憧ればかりではなく、時には「自分たちの方が正しい」という拠り所だったりすることがあって、歴史学的な視点や客観性に基づいた事実は必ずしも関係ないらしい。

 2013年12月18日に公開されて以来、観客動員数1000万人(※1)をあっという間に越えて、破竹の快進撃を続けている『변호인』を観た時、私はその思いを改めて強くした。
(※1)2014年4月時点で11,375,207人。

 この『변호인』自体は韓国一般の人たちにとって、世代を超えて笑って泣ける拍手喝采の娯楽作だ。
 軍事政権下に起こった実話をベースとし、当時の右派と左派、支配者側と非支配者側の関係を分かりやすく勧善懲悪物に見立てたとも言える。

 日本でいえば『男はつらいよ』の「寅さん」を人権派かつ庶民派の弁護士に代えて描いたようなお話に近いかもしれず、韓国の「怒れる若者」達にとって송강호演じる主人公は、現行体制に敢然と立ち向かうヒーロー兼メシアを投影したかのようでもあり、支持を受けるのは自然なことだろう。

 だが、この映画に対して私が共感も感心も出来なかったのは、亡くなってから日が浅く歴史的に評価するにはまだまだの人物を、伝説の英雄として奉るように描いていたことであり、主人公が立ち向かう事件にしても、それほど大昔ではない約三十年前に起こった「ING」事項だったからだ(※2)。
(※2)映画公開後の2014年2月にモデルになった事件の被告側無罪判決が釜山地方法院で下された。

 それ故、単純な娯楽フィクションとして割りきって描くには、もっと第三者的フィルターと時間が必要なのでは?と考えるのだが、この映画にはそういったことを後の世代に託すべき余地があったかどうかは疑問である。

 韓国の観客にとっては「即知の事実、常識、いわずもがな」ということかもしれないが、私はあいにくへそ曲がりの外国人なので、「一昔前ならいざ知らず、今もこれで本当にいいのか?」という気持ちが拭えなかった。

 この映画に限らずだが、韓国の軍事政権が成立した背景をスルーして「我々が求めたわけではない」と声高に主張することはやはりどこかズレているし、事件が起こった根底にある当時の政治的緊張についても、きちんと描かれているように見えない。
 
 そして、軍事政権に対する非難を「悪の権力者VS正しい庶民」という構図に転換し、娯楽ネタ化してゆくことは、今だ盤石とは言えない民主政権に対しても、「気に入らないから、デモでもやって転覆させればいいや」ということに繋がってゆくのではないだろうか。

 多くの若者にとっては「その場が面白ければOK」的な「ノリ」が優先しているだけの事かもしれないが、そこには昔のような命がけの民主運動とは異質の、「お手軽さ」も同時に感じてしまう。

 歴史的な事件の当事者に近い人は多くを語らないものだが、当時から隔てられた人は逆に事実を膨らませ、憎悪を漲らせやすい。
 そして、事件関係者がこの世からいなくなることに比例して、その憎しみのバイアスをさらに高め、新たな伝説が生み出され補填されてゆくことになる。

 韓国の人々はなんでもかんでも煽動になびいている訳ではないし、個人的な意見、内輪での話ということであれば、自分たちの国や社会を批判する意見もちゃんと出てくる。
 もちろん真逆の連中もいるが、多くは日本で一部声高に言われるよりも現実的で常識的だ。
 噂やデマに弱いことは否めないが、それは社会集団の脆弱性のようなものであって、日本もとやかく言えないだろう。

 だが、彼らにアプローチを試みる日本人にとって、いつも困難な壁として立ち塞がるのが、「おおやけ」ということになると、その態度が二重人格のように豹変することだ。
 韓国が「おおやけ」に対して横並びしない者には厳しく排他的であり、バランスを重視する中庸的な発言や対話路線は密かに賛同を得ることはあっても、大きなムーブメントに至らないことは否めない。

 そして「우리」という枕詞や特定キーワードは、普通の人たちを暴発させる危険な引き金と化し、意見が異なる者とのコミュニケーションがますます成立しなくなって行く。
 それ故、この映画に熱狂する若い観客の姿を見ていると、「この国らしいなあ」と思うと共に、暗澹たる未来の可能性もまた、同時に感じざるをえないのだった。

 なぜなら、近い将来、次に糾弾され貶められるのは、もしかしたらこの映画に夢中になった若い観客自身であり、それを暴力的に実行するのは彼らの子どもたち、ということになるかもしれないからだ。

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Vol.465 非常事態発令?? [韓国映画]

 先日、ソウルのある劇場に行ったら平日の昼下がりにかかわらず、半分以上座席が埋まっていたので焦ってしまった。
 この映画館はメジャーな某観光地にあるが、ちょっと存在が忘れられたようなところがあっていつもガラガラだったので、こんなことは初めてである。

 同時に気になったのは、やたらと機動隊員らしき警察官がエレベーターに乗り込んで来ることだった。
 やがてフロアは背中に「POLICE」と書かれた制服姿で埋め尽くされる。
 「また事件?」と思ったが、それにしてはやけに人数が多い。
 だが劇場内に入るとその謎が解氷する。

 私が観た回は実質、警察の貸し切り状態になっていたのである。
 警察官といってもおそらくは「義警」と呼ばれる徴兵されたお年頃の若者たちばかりで、たぶん福利厚生として今回の場が提供されたんじゃないかと思う。

 上映された作品はアクション映画、警察官も活躍するが実際の彼らの現実とは程遠い内容だろう。
 だが、映画によっては兵役中の隊員たちへ鑑賞禁止令が出たりするお国柄だから、こんな作品しかセレクトできないのかもな、などと想像した。

 以前、こことは別の映画館で上映終了と共に私服、制服の警官が警察犬を引き連れて雪崩れ込んできたことがあった。
 幸い観客へ事情聴取は行われなかったが、イタズラの爆破予告でもあったのだろうか?

 それよりもだいぶ前の事だが、鍾路三街駅で非常線が張られ、事情聴取に引っ掛かったことがある。
 一度疑われると面倒なのは日本と同じ。
 当時はパスポートや運転免許を持ち歩かないことにしていたので、すぐ身分証明ができず一時はどうなるかと思った。

 仕方ないので知り合いの会社社長に電話を掛けて警官に身分を説明してもらい、事なきを得たが、日本人であることを証明できるものは結局パスポートだけであることを痛感する。

 韓国を旅行した日本人が上げているブログで「韓国のホテルで部屋にパスポートを置くのは危険だ」と書かれている記事を読んだことがあるが、やっぱり「準戦時下」国家なので常にパスポートを身につけておくのは当たり前のことかもしれない。

 それ以来、パスポートを必ず持ち歩くようにしているが、私の知人にもタバコのポイ捨てで似たような経験をした人がいた。
 どうやら尋問された時に韓国語やら日本語を下手に使うと逆効果だったりするらしい。

 でもそれって、日本人のふりをしてその場から逃げようとする韓国人の小ワルが想像以上に多いということなのかも??

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Vol.462 家までの道のりは大ヒットへの道のりにもちょっと遠かった 『マルティニークからの祈り(집으로 가는 길)』 [韓国映画]

 2013年12月11日、韓国で一斉公開された話題作『マルティニークからの祈り(집으로 가는 길)』は下馬評で大ヒットを囁かれていたらしい。
 だが蓋を開けてみるとそうでもなくて200万人動員に届かず、早々にシネコンでは上映終了が始まった作品だった。
 動員数だけ見れば決してコケた訳ではないのだろうけど、映画の規模を考えるとちょっと寂しい数字である。

 作品自体は秀作といっても差し支えない。
 パン・ウンジン監督の演出は話法が巧みで分かりやすく、冴えて感動的だ。
 メロに溺れずほどよい制御がちゃんと効いており、フランス人キャストをあくまでも第三者として描いているところもいい。
 日本でも普通のシネコンにかけて遜色のない作品だろう(客が来るかどうかは別の話ですが…)。

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2014年8月29日より日本公開

 ではなぜ、それほど「韓国内ではウケなかったのか?」を考えると、まず主演を含む全体のキャストが微妙過ぎたことだったと思う。
 전도연は彼女じゃないと出来ないだろうくらい悲惨なヒロインを好演していたし、夫役の고수はひたすら韓国のおっさんを演じることに徹していてダサ格好いい。
 娘役の강지우は驚異的な子役だし、배성우演じる在仏韓国大使館員の高慢さも強烈だ。
 総じて皆好演なのだが、良くも悪くもマニアック、スターとしての普遍性やカリスマ性といった点で歩が悪かったような気がする。
 主演二人があと十歳くらい若ければもう少し広い層に受けた気もするが、それでは今回の役作りは成立しなかった訳だから痛し痒しである。

 第二に考えられるのが実話路線のやたら暗い物語だったことである。
 しかも舞台はほとんどが海外だ。
 韓国映画には「主な舞台が外国」「外国人が大勢出てくる」「外国語のセリフが多い」とどういう訳か興行がイマイチになるジンクスがあったりするが、『マルティニークからの祈り』の場合これが丸々当てはまる。
 物語については一応ハッピーエンドでそれなりに感動的なまとめ方をしているが、ハッピーさはせいぜい全編の20%といったところである。

 絶望と閉塞、僅かな幸せに情けない主人公たちと、この映画には欧米のインディーズ系に漂うリアリズムの匂いを感じたのだけど、それは韓国の一般観客にとって本能的に回避してしまう「骨董臭」や「違和感」だったのかもしれず、映画マニアには良くても気軽に映画館に来てその場でチョイスする性格の作品では無かったと思う。

 おそらく、最もこの映画に対して魅力を感じて高評価を与えそうなのは、40代から50代の裕福なインテリ層ではないだろうか。
 つまり教養と見識とお金はあっても映画館で映画を観ている時間がない人たちである。

 個人的には良い作品だと思うが、韓国内マーケティングの的を外した感は否めず、さらに1990年代中盤から後半にかけて巻き起こった「新しい韓国映画を自分たちの手で作ろう」的な夢を今だ引きずり続けるようなレトロ感もどこかにあって、後ろ向きな世相に対してどこか差異があることは拭えなかった。
 それもまた韓国で受けがいまいちだった理由なのかもしれない。

Vol.460 心霊映画としての 『結界の男』(박수건달) [韓国映画]

 映画というのは「幸運の賜物」だ。
 傑作をコンスタントに生み出すチームは、おそらく強運の星の下に生まれたんだろう、と羨ましく思う。

 だが韓国で2013年1月9日に公開され、約389万人を動員した『結界の男』こと『박수건달』は、必ずしも「幸運」を全て呼び込めたかどうか疑問だ。
 韓国ではヒットしたから、「結果オーライ」なんだろうが、ユニークな題材が活かせず、最後までぐちゃぐちゃの実にもったいない作品でもあった。

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 生彩に欠けた演出とメリハリのない展開は観る側を混乱させ、退屈させる。
 キャスティングの難しさから撮影開始が長い間ペンディングになっていただけあって、主演のパク・シニャンは素晴らしい仕事をしているが、彼の新境地を拓くまでに至らなかったのは、この映画が「ヤクザ」「オカルト」「アクション」「コメディ」「浪花節」「地方物」といったミスマッチで多様な要素を上手にまとめきれず空中分解寸前だったからだ。
 だが最後まで私がこの映画をなんとか見続けられたのは、おそらく韓国映画として珍しく正面から「心霊」を描いていたように見えたからだろう。

 1999年の『シックス・センス』が大ヒットして以来、韓国映画でも心霊現象をある程度真面目に捉えようとする傾向は出て来ていたが、「子供の絵空事」として撥ねつける風潮の方がまだまだ強いので、コメディとはいえ、こういう企画が一流スター出演の承諾を得て製作されたこと自体は特筆すべきことかもしれない。

 この映画最大の特色は、主人公のヤクザ幹部クァンホが傑出した霊能力の持ち主という設定にある。
 そのため彼は救いを求める浮遊霊たちに導かれ、韓国のシャーマニズム「坐俗=ムーダン」の巫女となり、「巫女=霊視能力者」として「霊とコミュニケーション出来る者」の視点で物語は進んでゆく。

 韓国人が「ムーダン」を外国人に説明する時、「韓国独特のものだから理解できないだろう」と勝手に決めつけられたことがあるが、「ムーダン」の源流は世界中にある自然信仰の一つであり、人々の暮らしの中で行われていたプリミティブな存在との対峙であり、決して特別なものではないはずだ。
 だが当の韓国人たちは意外とそこら辺を理解していないような気がする。

 『結界の男』は決して「ムーダン」がテーマの全てではないものの、パク・シニャン演じる主人公が死者たちとの対話に最初は戸惑い、やがてそれを受け入れて行く様子が、かなり雑だがそれなりにきちんと描かれている。
 「理解できないもの」という枠に祀り上げてオシマイ、にしていないことは評価したい。

 敵対する検事とその亡くなった恋人を巡るエピソードや、女医ミスクと娘スミンの別れのエピソードはダラダラと長く、映画のリズムを完全にぶち壊していてイライラさせられるが、未練を残した浮遊霊たちがクァンホに助けを求めて集まって来る様子や、死んだ暴力団会長とクァンホの対話シーンなどは韓国の心霊映画としてはなかなかいい線を行っていて感動的だ。
 
 この映画の初期シナリオが実体験基づいて書かれたものかどうかは分からないが、骨子の部分では「現象としてのムーダン」にかなり真剣に取り組んでいるように見えた。
 そこら辺がチョ・ジンギュ監督の持つ指向性ゆえか、妙に捻じ曲げられていた事は残念だったが、この『結界の男』は隠された真実を少し含んだ映画だったのかもしれない。

Vol.457 豚の夢をもう一度? 『사이비』 [韓国映画]

 2013年11月21日に韓国で公開が始まった『사이비』は、前作『豚の王』で注目された、연상호の手によるアニメーション長編だ。
 私的には『豚の王』は実直すぎるというか、ひねりも何もなく、「なんか主張が厨房」という印象が強かったので、あまり評価はしていないが、若い世代の抱えたやり場のない怒りを強烈に吐き出して見せたという点では異色の注目作でもあった。

 今回の『사이비』は打って変わって、もっと大人の領域へと踏み込んだ内容になっていて、「また李明博政権&ゼネコンズへの批判かい」みたいな気配もあるが、韓国で蔓延るキリスト教系カルト教団を中心に描いている。
 だが、蓋を開けると拍子抜けするほど穏やかな作品であり、前作のような停止不能の憤りや怒りは感じられず、テーマに対するアプローチも想定内といったところで、「ちょっと背伸びし過ぎたんじゃないの?」というのがファースト・インプレッションだった。

 製作費は前作の約三倍、作画も遥かにキレイでリアル志向の美術も悪くないが、その分、アニメーションならではの表現性が弱くなっている。
 こういうテーマをアニメーションで描くこと自体は賛成なのだが、『사이비』の場合は、「どこにアニメーションで描く意味があるんだろう」みたいな感じの方が強く、前作の『豚の王』はその作画の汚さが実は作品の力強さと表現性に直結していたことに気が付かされた。

 今回は躍進著しいNEWがバックに付いていることもあってか、製作進行や予算管理の面では前作より、しっかりした体制で作られたのではないかと思うが、そのビジネスライクさが本当なら吐き出したであろう、怒りと毒の混合物を見事なまでに相殺してしまったようにも見えた。

 韓国における地方の再開発問題も取り入れているが、肝心の宗教団体批判はキリスト教が日常に縁のない人間からすると、あたらず触らずといったところである。
 そこら辺を『豚の王』並みにドギツくやらかしていれば、もっと動議を醸しだしたのではないかと思うのだが、大人ブレーキが働いたのかもしれない。

 作品から強引な力は感じられず、「민철はイ・ビョンホンにそっくりだなぁ」とか、「경석の髪型は朴正煕元大統領と同じだなぁ」とか、「実写でやるなら경석はチョン・ジェヨンかなぁ」とか、余計なことばかり考えて観ていた。
 경석の指名手配写真が「詐欺師」として貼られているシーンでは、あまりにまんまなのでギャグかと思って笑ってしまったが、もちろんそうではない。

 『사이비』では철우という粗暴なアウトローが詐欺師に操られた嘘の王国を破壊するという、重要かつ対比的な役割を背負っていたはずなのだが、結局、철우というキャラがチンケなチンピラを超えることが出来ず、その大役を果たせなかった。
 おそらく、연상호監督はあまりにも愚かな철우に無意識下で自身を託せなかったんじゃないのだろうか。
 『豚の王』の子供たちは作り手側の忠実なゴーレムでありえたけど、『사이비』の登場人物たちは、そこら辺が残念ながらうまく機能していない。

 철우が教会を焼き払うシーンや自らが同じ穴のムジナと成り果てる結末は、本当ならもっと鮮烈なイメージになるはずだったんだろうと思う。
 韓国のアニメーション常識に照らし合わせれば、「どぎつい」シーンの連続かもしれないが、バイオレンス描写に鮮烈さはなく、これを観て圧倒される日本人の観客はあまりいないだろう。

 今、韓国のアニメーションが本当に中興期もしくは転換期を迎えているとすれば、とりあえず問題作を送り続ける연상호監督とそのチームには世間の評判など気にしないで我が道を突き進んで欲しいが、どこかの誰かさんたちが「世界に誇るなんたら」だとか、「韓国の宮﨑駿」などと声高に主張して作品が大ヒットした挙句、その個性を失ってしまったら本末転倒だ。
 とりあえず、そうならないことを祈りたい。

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「第6回日韓次世代映画祭」(3月28日~30日)枠内にて日本初公開。

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